オゼノサワトンボ
(ヒメミズトンボ)
尾瀬の沢蜻蛉(姫水蜻蛉) ラン科 ミズトンボ属
Habenaria linearifolia var. brachycentra H. Hara
日本固有種 絶滅危惧Ⅱ類 ( Vulnerable )
北海道と関東地方北部の高層湿原などに生える多年草です。 オオミズトンボの変種の位置づけです。 高さは20〜40cmで、基本種の40〜60cmよりかなり小さい。
「オオミズトンボより少し小さいのだろうな」という適当な予備知識で探しに出かけたので、見つけたときは「え〜!? こんなに小さいのぉ?」と驚きました。
一説には、本種はオオミズトンボと同種で区別しないという考えもあるようです。しかし筆者がその文献を確認できていないことに加え、側萼片の色がオオミズトンボは白色であるのに対し本種はわずかに緑色がかっていること、側花弁の基部先端の突起がオオミズトンボほど目立たないという客観的な相違点、及び、オオミズトンボをより寒冷な貧栄養の湿原に移植したらオゼノサワトンボになってしまうとは到底思えないという主観的な見地から、本サイトでは別種として扱います。
ヒメミズトンボの別名があります。 一方、オゼノサワトンボはヒメミズトンボより距が長く、別種であるという考えもあるようです。 いつも学名を参考にさせていただいているYListでは、本種とヒメミズトンボを別種として扱っており、次の学名を掲載しています。
Habenaria yezoensis H.Hara var. longicalcarata Miyabe et Tatew. (標準)
Habenaria linearifolia Maxim. var. longicalcarata (Miyabe et Tatew.) K.Inoue
(シノニム)
Habenaria yezoensis H.Hara var. yezoensis (標準)
Habenaria linearifolia Maxim. var. brachycentra H.Hara (シノニム)
しかし所有する最新の図鑑(2015年発行、ヒメミズトンボと表記、*1)や少し古いが詳細な解説がある図鑑(1982年発行、ヒメミズトンボ(オゼノサワトンボ)と表記、*2)では、掲題の学名が記載されていました。
う〜ん、どうしたものか? そこでネット上で信頼度が高いと思われる諸先輩方のホームページを参照したところ Habenaria linearifolia var. brachycentra が多数派であったこと、オゼとヒメを同種としているページがなかったことから、本サイトでもこれに従うことにしました。 すなわち、オゼノサワトンボとヒメミズトンボは同種として扱い、学名は掲題のとおりとします。
オゼノサワトンボとヒメミズトンボ、どちらが正式名称なのか別名なのか、文献により様々ではっきりしません。 ここでは自身が初めて見ることができたのが尾瀬ヶ原なので、掲題とおりオゼノサワトンボを正式名、ヒメミズトンボを別名とします。
ちなみに環境省の2019年版レッドリストには、ヒメミズトンボで掲載されています。
オオミズトンボの変種とされるオゼノサワトンボ。 確かにその姿はオオミズトンボのミニチュア版のようです。 しかし花の形などがオオミズトンボと少し違うようにも見えます。 詳しく見ていきますが、先に次の写真で基本種のオオミズトンボの花を再確認しておきましょう。
写真#4、#5にオオミズトンボの花の各部の名称を示しました。
写真#4、#5共通:①背萼片 ②側花弁 ②’側花弁基部の突起 ③側萼片
④唇弁 ⑤唇弁の側裂片 ⑥唇弁の中裂片 ⑦葯 ⑧粘着体 ⑨柱頭
写真#5:⑩距 ⑪花柄子房
詳細については、オオミズトンボのページもご参照下さい。
さて、オゼノサワトンボの花はどのようになっているでしょうか?
写真#6はオゼノサワトンボの花の正面です。 各部の名称と特徴を以下に示します。( )内は、基本種のオオミズトンボの長さです。
①背萼片:円心形で仏像の光背のように花の背後に立ちます(6〜7mm *1,*2)。
ほぼ白色ですが、わずかに淡黄緑色を帯びていました(特に外面)。 「淡黄緑色」
とは、要するに薄い黄緑色のことです。
②側花弁:半切り三角形で、側萼片より短い。 弧を描いて花の上部で左右が接しそ
うなほど近づき、中心の蕊柱を囲います。 ほぼ白色に見えます。 この写真では
形状がわかりにくいので、この後の写真でもご確認ください。
②’ 側花弁基部の突起:側花弁基部、柱頭の両脇に位置した、小さな突起です。 オオ
ミズトンボでは突起の長さは柱頭よりやや短い程度でしたが、本種の突起はより小
さく、先端部は柱頭より明確に後方にあります。 目立たないので、肉眼での確認
は困難かも知れません。
③側萼片:斜卵形で長さ約5mm(*2)(7mm *2)。 色は淡黄緑色を帯び、白色の
オオミズトンボと異なります。 今回ほとんどの花で大きく後方に反り返っており
正面からは見えにくい状態でした。 これは花が少し古くなっているためであると
思います。 あるいは、花粉塊を持ち去られるか、受粉するかすると、反り返るの
かも知れません。 この辺は1回の観察ではわかりません。 数は少ないですが、左
右に平開し翼のように見える花もありました(写真#7)。
④唇弁:淡黃緑色、長さ約10mm(15mm *2)、3裂して十字形となり、この花の
最も特徴的な部分です。 十字形の裂片は線形です。
⑤唇弁の側裂片:オオミズトンボよりも明確に下垂していました。 先端部には微小
な歯牙(ギザギザ)がありました。
⑥唇弁の中裂片:十字形の唇弁の下側の部分の裂片で、全縁と言ってもよさそうです
が、先端部に微小な欠刻がある花もありました。
⑦葯:淡褐色に見える部分で左右に1個づつあります。 中には植物にとってとても大
切な花粉塊が収められていましたが、この花では訪花昆虫に持ち去られた後で
す。 花粉塊を引きずり出されるときに葯も壊れ、崩れた感じになっています。
葯は大切な花粉会を守る格納庫ですが、送粉者が運び出すときにはその邪魔をしな
いよう、簡単に壊れるような構造になっていると思われます。
⑧粘着体:この花では昆虫に持ち去られてなくなっているので、図示していません。
開花したほとんどの花で、粘着体と花粉塊が持ち去られていました。 粘着体は花
の側面を示した写真#9で詳しく説明します。
⑨柱頭:蕊柱の雌しべに相当する器官で、ここに花粉がつくと受粉します。 この写
真の花も含め、非常に多くの花の柱頭に花粉と思われる白色粒状のものが付着して
いました。
この花の第一の特徴は、なんといっても十字形をした唇弁でしょう。 淡緑黄色で、長さは10mm。 本当に不思議な形です。 ラン科の花の唇弁は、通常は「広告塔」の役割があります。 様々な形状や色で、送粉者となってくれる昆虫を惹きつけます。 しかしこの花の唇弁は、形は変わっていますが、目立つようには思えません。 むしろ白っぽい萼片や側花弁の方が目立ちそうです。 それらが白っぽいのは夜間に目立つことを目的としているのかも知れません。 長い距を持つので、口吻の長い昆虫しか蜜にありつくことはできないでしょう。
そう考えると、送粉者は夜のチョウ、つまりガの仲間かも知れません。 もしガの仲間が送粉者であるなら、目立たない十字形の唇弁は、どのような役割を持っているのでしょうか? ラン科植物の花は送粉者の昆虫とともに進化してきたので、このような形状になった理由は必ずあるはずす。 とても興味深いところです。
写真#7の一番下の花は、側萼片を平開しています。 形状はオオミズトンボに似ています。 今回観察した中では、このように美しく側萼片を広げた状態の花は稀でした。 推測ですが、あと1週間早く訪れたら、このような花をたくさん見ることができたと思います。
側萼片の状態は良かったのですが... 花が若すぎて唇弁が展開しきれてなく、前方に突き出た状態です。 背萼片も開いたばかりで形が整ってなく、まるで3裂しているかのように見えてしまっています。 なかなか良い状態の花には出会えませんでした。
左側の花は開花が始まったところですが、蕾の中では、唇弁は花の上側に巻くように仕舞われていたであろうことがわかり、興味深いです。
写真#8は、#7の一番下の花を側面から見たものです。 蕾のときは花の前面〜上方に巻くように畳み込まれていたと思われる唇弁が、徐々に前方〜下方に下垂しようとしている途中の段階であることがわかります。
見えにくいですが、この花の粘着体はまだ持ち去られてなく、淡褐色の葯も整った形状で残っています。 側花弁の形状がよくわかります。 この花でも、側花弁基部先端の突起は柱頭よりかなり短いことがわかります。 ミズトンボとの相違点といえると思います。
写真#9はオゼノサワトンボの花の側面です。 各部の名称は、①背萼片 ②側花弁 ②’ 側花弁基部の突起 ③側萼片 ④唇弁 ⑤距 ⑥粘着体 ⑦柱頭 ⑧花柄脂肪
写真#6の花では⑥粘着体がありませんでしたが、この花では残っていました。
①背萼片:花の背後を守るかのように立ち上がっています。 この花では、先端部が
やや後方に反り返っていました。
②側花弁:横から見ると縦長の二等辺三角形のような形です。 白色ですが、わずか
に淡黄緑色を帯びていました。
②’ 側花弁基部の突起:矢印は突起の先端を指しています。 鋭頭で、先端は柱頭の先
端よりかなり後方であり、柱頭に近い長さの突起を持つオオミズトンボと異なる特
徴です。
③側萼片:後方に反り返っている状態です。 色は淡黄緑色で、白色のオオミズトン
ボと異なります。
④唇弁:唇弁の長さは約10mm。 基部から中裂片先端にかけて、やや後方に反り返
っていました。
⑤距:基部はやや白っぽいですが、全体に淡黄緑色です。 オオミズトンボの距は基
部から中部にかけては白いので、これも相違点です。 長さは5〜15mm(*2)です
から、オオミズトンボの25〜30mmと比較するとかなり短い。
距は先端に向かい太くなります。 先端部は送粉者への報酬である蜜を溜める蜜壺
となっています。写真#9では{ の部分に蜜が溜まっているのが透けて見えます。
⑥粘着体:白っぽく、丸みを帯びた小さな器官で、角のような白い支持体の先端に乗
っています。 強力な粘着力を持ち、昆虫が花を訪れるとその腹にくっつきま
す。 粘着体は支持体から簡単に外れるようにできていますが、粘着体には糸状の
付属体がついており、それは葯の中に格納された花粉塊につながっているので
す。 昆虫が花を離れるときに、花粉塊は葯から引きずり出され、昆虫にぶら下が
って次の花に運ばれます。 とても巧妙な仕掛けだと思います。 写真#10も参
考にして下さい。
⑦柱頭:他の花の花粉塊をぶら下げた昆虫が花に訪れると、花粉塊は柱頭に触れ、花
粉がくっつきます。 上の写真でも見えにくいですが、白色の粒々の花粉が付着し
ています。 こうして受粉が行われ、子房の中で次の世代を担う種子が作られます。
⑧花柄子房:ラン科植物では、花柄と子房の境界部が明瞭でない場合があり、その場
合対象となる器官全体を花柄子房と呼びます。 子房の中に胚珠があり、花粉から
伸びた花粉管が蕊柱の中を通って胚珠に達すると、種子が作られます。
ところで、赤枠内にご注目を。 唇弁に何かがくっついています。 次の写真をご覧ください。
写真#9の赤枠部を掟破りなほどのトリミングをしたのが写真#10です。 画質の大幅劣化はご容赦ください。
これはオゼノサワトンボの花粉塊と思われます。 糸状付属体も残っています。 付着した部分は影になっており、粘着体は見えませんが「らしきもの」が写っています。 「?」で示した黒っぽい部分の正体は不明です。
本ページに何度も「花粉塊」が述べられていますが、なかなかイメージできなかったかも知れません。 花粉塊は、この写真でわかるように、多くの花粉が集まって塊(かたまり)になったものです。
同じ花を少し角度を変えて撮影した写真があるので、次に示します。
写真#11は#10の花を別角度から撮影したものです。 柱頭には多数の花粉がついています。 また、左側の粘着体が残っています(矢印部)。 右側は無いように見えます。 赤枠内の唇弁の側裂片についた花粉塊は、他の花から持ち込まれたものである可能性もありますが、この花の右側の花粉塊である可能性もあると思いました。 昆虫が訪れたが、うまくつかなくて、落ちてしまったのかも知れません。 赤枠内をトリミングしたものを次に示します。
糸状付属体の先の黒っぽいものは、昆虫のようにも見えます。 この昆虫に粘着体がくっつき、花を離れようとしたが重すぎて落ちてしまったのでしょうか? いやいや、せいぜい花粉2、3個分の大きさしかないこの昆虫に、花粉塊を葯から引っ張り出せるパワーはなさそうです...。 どのような経緯をたどってこの状態になったのかは想像を逞しくするしかありませんが、花粉塊を写真で示すことができたのはよかったと思います。
さて、オゼノサワトンボの花柄子房の「ねじれ」はどうなっているでしょうか。 近縁種のオオミズトンボとミズトンボは、花柄子房にねじれがなく唇弁を下側につける「ストレート・唇弁下側タイプ」としました。 当然本種も... と思ったのですが、ムムム、なんかおかしい!
写真#13で花柄子房の先端から3/4あたりまでねじれはないように見えますが、基部付近の1/4程度、赤丸で囲んだ部分に妙な「ねじれ」があります。 もし苞で隠れた部分に強いねじれがあったとすると、上記タイプではなく、花柄子房を180度ねじらせて唇弁を下側につける「標準タイプ」である可能性があります。
筆者にとってはとても重要なことなので、苞の中が見えない写真では軽率に判断できません。 もう少し慎重に情報を精査してから判断したいと思います。 ねじれに関しては近縁種のオオミズトンボとミズトンボも同様であるはずなので、もし誤りであれば至急訂正する必要があります。 しかし今しばらく検討の時間が必要です。
観察日は総じて花のピークが過ぎている様子でしたが、中には上の写真のようにまだ一つも開花していない株もありました。 同じ場所で開花時期がこれだけずれるということは、この地の集団が遺伝子が多様性に富んでいるためといえます。
集団の中で個体により開花時期がずれていれば、様々な環境的な驚異に対して、生き延びられる可能性が高まります。 もし草をなぎ倒すような強風・水没するような洪水・異常な高温や低温・病害虫の襲撃など、様々な災難に見舞われても、まだ開花前の蕾であれば、あるいはすでに結実した個体があれば、集団の「全滅」や「著しい結実率の低下」は回避できる可能性が高まります。
この地の集団が遺伝的な多様性に富んでいるであろうという仮説を、間接的に裏付ける現象が、次の写真です。
写真#15は元気に咲くオゼノサワトンボの花です。 よく見ると、多くの花で花粉塊が持ち去られており、そして必ずと言ってよいほど、柱頭にはたくさんの花粉が付着していました。 これは何を意味しているかというと、ここでは送粉者の昆虫が十分な働きをしているということです。
もちろん花粉塊を持ち去ったのは送粉者とは限りませんが、柱頭に花粉を付着させた花が大多数であるということは、相当数の送粉者が活躍している証拠だと言えるでしょう。 多くの送粉者が、きちんと花粉を離れた株に運んでくれれば、遺伝子の多様性は維持されるものと思います。
以前近縁種のミズトンボを見たとき、多数の株と花を観察できましたが、そのほとんどの花で花粉塊が残っていることに愕然としました。 株数が多い自生地でしたが、送粉者が極端に少ないのだと思いました。 このような場所で栄養繁殖が続くと次第に遺伝子の多様性が失われ、稔性が落ち衰退していく運命にあると思われます。
多くの花粉塊が持ち去られたオゼノサワトンボたちは、撮影対象としては嬉しいものではありませんが、他家受粉の健全な営みが行われていると思えば、むしろ喜ばしい状況なのだと思いました。
さて、オオミズトンボとの違いを調べていたのですが、花粉塊やら花柄子房やらで脱線してしまいました。 ずらずらと書き綴ってきたので、結局どうなんだと思われているでしょう。 そこで近縁種のミズトンボも含めて、オオミズトンボ・オゼノサワトンボの特徴の比較表をつくってみました。
上の表の数値は図鑑に記載されていたもので、自分で測ったものではありません。
ミズトンボの背萼片がオゼノサワトンボより短いなど、少し疑問な点もあります。
草丈は ミズトンボ > オオミズトンボ > オオミズトンボ でミズトンボが一番大きいのですが、花の大きさは オオミズトンボ > ミズトンボ > オゼノサワトンボ となります。 その他色や細かな特徴を見ると、この3種は別種・変種の関係であり、やはりオオミズトンボとオゼノサワトンボも大きさ以外にも相違点があり、同種ではないと言えそうです。
湿原に咲く、小さく可愛いオゼノサワトンボ。 このランがずっと生き続けられる環境が維持されることを願ってやみません。
< 引用・参考文献、及び外部サイト >
文献・図鑑などの著作物や、個人・法人のWEBサイトには著作権があることをご理解の上、ご利用下さい。
http://www.bun-ichi.co.jp//tabid/57/pdid/978-4-8299-8117-7/catid/1/Default.aspx
文一総合出版 2015年5月1日 初版第1刷 p.20
http://www.bun-ichi.co.jp/
*2 日本の野生植物 草本 1 単子葉類
平凡社 1982年1月20日 初版第1刷 p.193
2019.10.27 掲載
オゼノサワトンボが掲載されたページ
Dairy-Hiroダス