多年性の菌従属栄養植物のランです。 葉や葉緑素を持たず、光合成をする能力はありません(葉が退化した鱗片葉はあります)。 地下茎の菌根に住まわせた特定の菌に寄生し、養分を奪取して生きます。 和名の「遠州」は、発見地の静岡県西部に由来します。
分布域は、従来は愛知県と静岡県のみに分布すると考えられていました(*2)。 インターネット上でも、愛知県と静岡県のみに分布する、としている記述を見かけます(*7)。 しかし近年、各地での発見報告が相次いでいます。 具体的には、関東では茨城県と埼玉県、近畿では大阪府、奈良県、京都府、四国では高知県、九州では宮崎県から報告例があります(*3、*8,*9)。 そして2017年にはとうとう(?)、東京都からも発見報告がありました(同時にホクリクムヨウランも発見されています)(*3)。
なぜ近年になって、急に発見報告が増えたのでしょうか? 温暖化の影響で、エンシュウムヨウランが、急速に分布域を拡大しているのでしょうか? そのような可能性はまったくないとは言いませんが、ほとんどないと思います。 私見ですが、インターネットやスマートフォンの普及と関係があるように思えてならないのです。
近年発見された自生地には、元々エンシュウムヨウランがいたのだと思います。 しかしムヨウラン属の多くは、ご存知のように地味系の目立たない植物です。 「普通の花好き」の人は、存在すら知らない人も多いでしょう。 たとえ偶発的に登山道脇で目に入ったとしても、「何かの花が枯れたんだな」と思って素通りです。
このような植物に興味を持つ、ちょっと変わった人たち(失礼!)は、登山道脇のムヨウランに気づくかもしれませんが、細かいことはわかりません。 「帰ってからじっくり調べてみるか」とデジカメでパチリと撮影しますが、薄暗い環境で、しかもコントラストが低いムヨウラン属は、大抵ピンボケ写真になります。 パソコンの大きな画面で眺めても、細かい部分はさっぱりわからないので、「まあ、いいか。 ムヨウランだな」となってお終いです(自己体験に基づく推測)。
ところが、近年は状況が一変したのです。 以下は、あるグループの低山トレッキングでの会話です(フィクションです)。
「あっ、変な花みっけ。 なんじゃコレ?」
「どれどれ。 おっ、これはムヨウランじゃないかねぇ?」
「なになに、ムヨウランがいたって? ほう、確かにムヨウランだな」
「ただのムヨウランでいいのかね? 調べてみるか」
(ポケットからスマホを取り出す)
「え〜とね、ムヨウランの仲間には違いないが、ムヨウランとはちと違うような」
「もっと画像を拡大してみな。 唇弁や副萼のところをよく見せて」
「おっ、これはエンシュウムヨウランじゃないか? ほら、特徴がピッタリだ!」
「エンシュウムヨウランって、この県にはいないハズじゃないかのう?」
「だな。 こりゃ新発見かも知れんぞ!」
「植物に詳しい先生に確認してもらおう。 ホレ、もっと写真を撮れ!」
こんなやり取りがあったかどうかは定かではありませんが、誰でもスマホを持てる時代になり、見慣れない花をその場で調べることが、当たり前のようになってきました。 エンシュウムヨウランが矢継ぎ早に発見された背景は、こういった社会インフラの変化も関係しているように思えてなりません。 今までムヨウランと思っていた植物が、実はエンシュウムヨウランやホクリクムヨウランであったことが、次第に確認され始めたのではないでしょうか。 今後、報告のあった都府県の近隣の県でも、新たな自生地が発見されるかも知れませんね。
暖温帯の常緑広葉樹林、落葉広葉樹林やスギの林床に生えます。 花期は5〜6月。植物体全体が黄褐色を帯び、茎は硬く、上部に3~6個の花をまばらにつけます。
本種は、当初はムヨウランの変種として発表されましたが(*2、*5)、その後ウスキムヨウランの変種とされました(1990年)。 現在は、種のレベルから区別する見解が有力に思え(*1、*5、*6)、本サイトでは独立種として扱います。
開花時の地上茎の高さは 15〜30cmになりますが、今回見ることができた二十数株は、20cm前後が多かったです(#3)。 ムヨウランより、かなり小型に見えました。
地中の植物体は地上の花に比べて非常に大きく、半径約50cmの円状に腐葉土中に広がっているそうです(*7)。 これを知って、観察時に気をつけなければいけないと思いました。 地上茎から50cm以内を歩いたら、柔らかい地面の下の浅い場所にある地下茎を踏みつける可能性が高いからです。
花後は、花殻や花茎まで黒くなり、#4の右側にあるように、翌年の花期まで残る場合もあります。 今回はこのような花殻を多数見ました。 殻のみが立って残り、今年の花がない場合もありました(#5)。
花色は変異もあるようですし、資料によりいろいろに表現されています... 淡褐色、淡黄色、濁黄褐色 など。 その中で「淡黄色」が一番近い気がしました。 何という色名で表現しようと、かなり地味系の花であることには違いはありませんね。
花はほとんど開かないとのことでしたが、その通り、探し回ってもなかなか開いた花が見つかりません。 筒状になって、先端がかすかに開いた花ばかりです。 時期がやや遅めであったことも関係あるかも知れませんが、やはり大きく開くことは少ないようです。 ようやく、半開にもなっていませんが、わずかに開いた花を見つけることができました。
他のムヨウラン属も含めて、雨または霧となった日に、晴れ間が覗いて薄日がさすような状態の時に、花被片が大きく開くことがあるそうです(*2)。 その他にも、気温や湿度などの条件があるのかも知れません。 また、花が開くことがなかったとしても、自動自家受粉により結実する仕組みを備えています。
わずかに開いた花。 奥までは見えませんが、この花が見つかってよかったです。唇弁は3裂し、側萼片は小さい。 見えているのは、中裂片です。 側裂片の様子は、残念ながら上の写真ではよくわかりません。 次回の出会いに期待です。
唇弁は倒披針形で舟形になり、中裂片の縁は不規則に切れ込んでいるように見えました。 中裂片の上面には、淡黄色で肉質な、毛状突起が多数生えています(図鑑によってはこれを「毛」としています)。 次の写真でもう少し近寄って見てみます。
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毛状突起の色は、根元から先端まで淡黄色です。 ウスキムヨウランでは先端部が淡紫色になるので、識別できます。 またすべての毛状突起は、分岐(枝分かれ)します(*2)。 この分枝が疎らで、分枝した細胞が長いことが本種の特徴のようです(*4)。
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#9は花の側面で、#10はその一部を拡大したものです。 背萼片・側萼片と側花弁はほぼ同形、倒披針形で、長さ13〜18mm 。 唇弁も倒披針形で、長さ12〜15mmです(*2)。
花被片の基部(花柄子房との接合部)には、縁が不規則なギザギザとなっている、副萼(ふくがく)があります。 副萼はムヨウラン属の特徴の一つです。 本種は、その副萼のすぐ下が、少し膨らみます。 この膨らみの有無が種の特徴で、識別ポイントの一つとなります。
副萼の下の膨らみがある種としては、本種の他にウスキムヨウランなどがあります。 膨らみがない種は、ムヨウラン、ホクリクムヨウラン、キイムヨウランなどがあります。
#11・12は、前年の花殻の果実の部分です。 硬く、黒光りしています。 鳥かごのようにも見える果実の殻は、花期には花柄子房であった部分です。
上述のように、翌年の花期まで残る場合があります。 花は、もちろん前年中に消失していますし、果実の中身の種子は、下に落ちたか風に飛ばされて、ありません。
よく見ると、副萼とその下の膨らみが、そのまま残っています。 これは、副萼が花ではなく、花柄子房の一部であることを示していると思います。 同時に、副萼下の膨らみを観察することによって、花がまったく無い季節でも、花殻を見つけられれば、同定の手がかりになると思いました。
この植物は、愛知県の花友さんに情報をご提供いただき、初めて見ることができました。 この場を借り、改めて御礼申し上げます。 ありがとうございました。
< 引用・参考文献・外部サイト >
文献・図鑑などの著作物や、個人・法人のWEBサイトにも著作権があることをご理解の上、ご利用下さい。
*1 愛知県のムヨウラン類 芹沢 俊介
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bunrui/5/1/5_KJ00004649630/_pdf
日本植物分類学会誌 「分類 BUNRUI」 Vol. 5 (2005) No. 1 p. 33-38
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/bunrui/5/1/_contents/-char/ja/
*2 ムヨウランの1新変種エンシュウムヨウランを巡る問題 津山 尚
http://www.jjbotany.com/getpdf.php?tid=7364
植物研究雑誌 The Journal of Japanese Botany 第57巻 第7号
http://www.jjbotany.com/
設樂 拓人・末次 健司・福永 裕一
http://nh.kanagawa-museum.jp/research/nhr/nhr253.html
http://www.bun-ichi.co.jp//tabid/57/pdid/978-4-8299-8117-7/catid/1/Default.aspx
文一総合出版 2015年5月1日 初版第1刷 p.9
http://www.bun-ichi.co.jp/
http://hanasakiyama.web.fc2.com/ran/sp/Ensyuumuyouran.htm
*6 基礎生物学研究所 WEBマガジン エンシュウムヨウラン
http://www.nibb.ac.jp/webmag/field/okazaki/2005/05/lecanorchis.html
http://mikawanoyasou.org/data/enshuumuyouran.htm
*9 ニャンだかんだのブログ
希少な「エンシュウムヨウラン」水戸で発見 2013.9.3 産経ニュース
https://ameblo.jp/hanabusa-fujie/entry-11607950962.html
(産経新聞のニュース記事は削除されていました)
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2017.10.17 掲載